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1月前、コロナ狂想曲が盛り上がってきてるタイミングでの
「令和最初の天皇誕生日」
だったみたいねぇ。

しかし、即位からこのかた、即位前の皇太子時代も含めて、まったくめでたく思えないのだが。
慶びも喜びもしないよ。
日本国民の端くれとしては。

めでたくない理由は、現在のコロナ騒動のご時世に鑑みて…
ではない。

だって、深刻面して語る程のことでなし、コロナなんぞは。

カレコレ古い話だけども、皇太子時代、各局の報道陣を集めて
自分の連れ合いというか相方について、これをファーストネームで呼称して(ま、名字や戸籍はないのだけども)
「人格が否定され」
云々と、発言したんだよね。

結局、あの「人格否定発言」については、ついぞ撤回も訂正もせぬまま、象徴に即位あそばされたワケ。

ということは、現在この瞬間も、人格というのは
「否定し得るもの」
として、お考えだということよね。
我が国の象徴は。
国民統合の象徴はさ。

で、それは主権の存する国民の総意なんだよね?

少なくとも俺は
「やだね!」
だけど。

俺以外の、日本国民やニホンジンと自称自認するヒトビト全てが、アノ様態を認めてるとか、諦めてるとか、忘れてるとしても、ま、承服しかねるね。俺は。

人格などは知ったこっちゃねぇけど、象徴としての資格にゃ、かなり難ありといえるだろうから。
自身の地位について、その法的な根拠を危うくするような言動を、御自らがされたってことで。

「日本国憲法と称する文章は無効」
と称する議員がいて笑ったけどさ、大差ないワケ。

「クレタ人は嘘つきだと言ったクレタ人」
みたいな。

自己言及のパラドックスやね。


我が国の最高法規ってのは、もちろん『日本国憲法』だからね。
その第一条に天皇についての規定があるでしょ。
旧の帝国憲法下ですら、天皇はその「機関」と解釈され得たワケで。
「神聖ニシテ犯サザル」
のは、まず、憲法及び法体系への信認についてであって、それと元首との間に一切の齟齬はないというモデルは、聖書の無謬と教皇の無謬との関係がヒントなんじゃね?

しかしながら、昭和になって天皇自らが「過ち」を認めざるを得ない事態になった。
つまり無謬(不可誤謬)ではいられなくなったワケ。
その原因は、天皇に統帥権を認めた旧憲法の内にあるんだな。
もちろん敗戦がキッカケだけども、「過ちを犯し得る立場」
「統帥の責を批判される立場」
として天皇を規定してしまってたんだ。

戦後憲法の「象徴」ってのは、むしろ天皇の無謬性の担保と、国体の護持とのためには、帝国憲法よりも妥当ってことじゃね?

で、その日本国憲法には「人格」という語や概念はあるかねぇ?

憲法に規定されてるのは「人権」であって、それを最大限尊重するってことが、日本国及び日本国民の責務なんじゃね?不断の努力によってさ。
天皇は、そうした在り方の「象徴」なんじゃねーの?

「人格」や「尊厳」なんてものは、明確に規定もできないし、ってことは否定もできないはずで。
ましてやそれが、プライベート(私的な)領域にあって、守られるべきものだなんて、公人の側が要求できないでしょ。

という次第で、俺は日本国民として、あの二人を天皇・皇后とは認めてないの。
「人格」ではなく、天皇としての「資格」と「品格」がないんだもん。
閣議決定された、ちょっと日本語として難ありな文章を読み上げるだけが、「象徴」なのかねぇ?
象徴としての務めができないのなら、一国民になれば済むだろうに。

憲法には「人権を尊重」としか書かれていない。
その憲法に規定される地位や立場に、「人格は否定し得るもの」という考えの人物が就くってことは、修復も修正も不能なパラドックスじゃないのか?

ま、本来は憲法遵守が「保守」の基本的立場のはずなのに、中学卒業程度の社会科の知識もなきゃ、基礎的な理解力もないオルタナティブなヒトビトが涌いちゃってんだもん。
それこそ象徴的で、お似合いの風景かもね。
ただし、フツーの日本国民の一人としては、まったく認めないよ。

とりあえず、(大いに侮蔑の意を込めて)
「オルタナ天皇・皇后」
「オルタナ国民」
「オルタナ政権」
とでも呼んでおこうか。

さてと
『日本国憲法』を最高法規として、それぞれの下位法は、憲法を実現する手段として制定されていると。
この法体系に信頼して執り行われる、立法・行政・司法の三権ってのが、「法治国家としての日本国」なり「公共」という在り方でしょ。

どうにも
「オルタナ」周辺のヒトビトというのは、法治国家や公共へのヘイトを拗らせてるだけのよう。
つまり大人じゃない。
叱られるべきときに叱られてこなかった、躾のできてないヒトビト
なんだろうな。

「人格が否定され」も、ひたすら行儀が悪くて下品な発言でしょ。


しかしさ、ごく一般的な日本国民の立場から見て、この極めて下衆な様態についても、何らかの「効果」として評価しなきゃ、真っ当な批判にはならないんだよね。
メンドクサイけど。

19世紀にも「大衆」の跋扈する状況について、苦々しげに警鐘を鳴らした人物がいるね。
オルタナ…ならぬオルテガ(笑)

でも、オルテガをそのまま安易に援用する(持ち上げる)だけの、プチパラダイムシフト感からのプレミアム感とか、意識高い系上級国民な雰囲気に安心しているなら、下衆の上書きでしかないね。
「高次意識のナンチャラ」とかに期待するスピリチュアル系ビッチと同類の。

できるだけ現実の地平に根差して、なおかつ現実の地平に対して批判的に、つまり「現実的(笑)」に、さまざまな現象について、その効果を評価しなきゃ。
繰り返すけど
「効果」として評価しなきゃ。

日本国及び日本国民統合の象徴にして
「人格は否定し得るもの」
というなら、日本国民の総意がそうだということになる。
ウエマツサトシとか、その効果の現れのひとつだろうね。