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龍樹にはじまる大乗仏教の、一番の特徴というか教えの根幹は
「万人どころか万物に、仏性が宿ってるんじゃねーの?」
ということ。

キリスト教において、アルミニウス主義者が万人救済をいうはるか昔のこと。

仏性というのは、現象の背景に隠された真理とか、本質とか、イデアとかってことじゃあないよね。
キリスト教的な聖霊とも違う。
「根源」とか「根源的一者」
みたいなことに期待すると、どんどん自由ではいられなくなる。
「根源への期待感から、いかに自由か?」
「期待する我から、いかに解脱するか?」
ってことを重要視したのが、釈迦でしょ。
「悟り」の中身については語られてないじゃん。
どころか、「仏陀」とか「悟り」に到る方法論を示したんじゃなくて
「それは悟りとはいえない」
「これも法とはいえない」
って否定の意しか述べてないよ。ほとんど。
だから、「仏性」というのは、期待から解放されて仏陀に向かう契機やチャンスってことで、その契機くらいは万人や万物に開かれてるだろうってのが、大乗じゃないの?
だから、絶対というよりは無辺なんだね。
西洋の哲学概念で近いのは、スピノザのモナド、それをベースとしたニーチェの深淵くらいかな。
あとはハイデガーの否定神学的な存在論とか。
ま、ニヒリズムそのものといってもいいのかも。
それを「空」で説明するってのも、よくよく気を付けないと、空論を絶対化しちゃうと、またまた偏狭で不自由なものになっちゃう。

さて、僧侶や仏教者にとっての仏性となると、そこに向かう態度としては、二つに大別できそう。

己の仏性に対して自信満々か、焦燥感に苛まれるか。

鎌倉期の宗祖に例えると、
前者は日蓮、後者は親鸞が代表的といえそう。

日蓮は自らを「菩薩」とまで位置付けるでしょ。
それが妥当かどうかはさておき、それだけの修行や経験を積んだという自負があったということでしょ。

他方の親鸞は、これはもう、焦燥感の塊じゃん(笑)
菩薩どころか一介の僧ですらない「愚禿」を称してるし。
仏性や宗教的才能に欠けるとの焦燥感から、「絶対他力」という大転倒に到るセンスを磨き続けるしかなかったワケで。

他力本願を導き出すために、とんでもない自力を必要としてる(笑)

親鸞の努力や焦燥に鑑みると、妙好人を是とするどころか、善しとするというのは、やっぱオカシクね?
浄土真宗
悪の自覚がない、自覚の必要もないという、ちょっとアレなヒトに、仏性ならぬ霊性を期待するとかさ。

障害者にピュアな魂を期待する失礼さと同類じゃないのか?

妙好人に、幼児性というか、邪悪さを含むグロテスクを見るってのなら、まだしも。
それとて、自らの邪悪さを、鏡写しのように投影してるという自覚くらいは、最低限必要でしょ。

「邪悪な阿弥陀」とか「邪悪な神」とか、絶対者への邪悪の疑いが晴れないとしても、「そこに信頼するより仕方がない我」って自覚から出発するというなら、まだワカルね。
デカルトの方法的懐疑みたいなものとして。

さてと、俺自身はというと、自分に仏性とか、ましてや霊性だとか、それがあるとかないとか、ま、興味がない。
大乗ってのは基本的に好きな考え方だけども、そこに自己をどーこーみたいな期待はできないなぁ。
ソイツが日本的かどーかなんて、まったく意中にゃごさんせんよ。

阿弥陀にせよ神にせよ、絶対的な一者のようなものに、唯一期待するとするなら
「永劫の他者」
としてくらい。

禅問答には有名な
「仏に会うては仏を殺せ」
ってのがあるけど
「殺し続けても、永劫につきまとう他者としての仏」
ってのなら、なんとなく理解もできるんだけど。

で、阿弥陀の側の本願ってのは(よく誤解されてるけども、他力本願ってのは阿弥陀の側のハナシであって、人間の側の願いとは無縁だったりするワケ)、
「一切忘却」
じゃないのかと。

世界と阿弥陀、一切が消滅・忘却される過程としての現世って方が、辻褄が合いそうなんだよなぁ。

無視され、否定され、忘れ去られる可能性こそが万人に与えられた「仏性」ともいえるんじゃないか?

存在の無価値や無意味を認めることに、なぜ抵抗感を覚えるのか、その心情ってのがよくわからない。


「愛の対義語は憎しみではなく、無関心」
なんてことを耳にするけどさ、マザーテレサが限定的に使ったことについては、ま、理解できる。
だからといって
「ヒト(ワタシ)は愛されるべき」
「関心を持たれるべきワタシ」
というのは、傲慢で不当な要求じゃないか?

「孤独の内に死に、忘れ去る、忘れ去られる権利」
ってことを侵害してるじゃないか。